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私が、店舗出店を続ける理由。
vol.3〈化粧品販売と製造〉
素晴らしい仲間と出会い
一緒に夢を目指そうと船に乗り込んだけれど
〈食料がない〉 — そんな感じ?
だからこそ私たちは
船の上で「自給自足」を始める計画を
立てたのです。
基本サロン業というのは
提携する商材が必要となりますね。
その商材を仕入れる事でエステや美容室は
経営できる訳ですが…
当時、オーガニックサロンをするための商材は
ほとんど世の中に存在していませんでした。
そして、とても高額…
小さなサロンが
継続的に買い続けるには、不可能。
売っても売っても、利益も殆どありません。
しかも、当時は海外のものも
いくつか取り寄せましたが
急に販売停止になったり、と
落ち着く事はなく、本当に不透明なものばかり。
「良い仲間を見つけて、良い箱もあるのに
納得できる商材が足りない。」
植物のパワフルな力を
化粧品に活用したい
私は昔から植物療法の世界を
ヒーリングだけには見ていませんでした。
癒されたい、健康になりたい、綺麗になりたい。
確かにそんな希望も抱いていましたが
どちらかと言うと
「植物のパワフルな力を化粧品に活用して
“効果が低い”と言われてきた
オーガニック化粧品を
“ちゃんと効くもの”には出来ないのだろうか。」と —
過去に学んだ知識が糧となり
私はコロナに見舞われた2020年春。
化粧品工場の設立へと船の舵を切りました。
その際に必要だった3000万円の資金は
24歳で起業した際に
保険会社に勤める姉の勧めから
使わない毎月50万円ものお金を
生命保険に積み立てており
その一部を引き出し、使用しました。
更に、その際必要だった化粧品製造業の知識は
他のOEMで化粧品を作りながら得た人脈を辿り
相談を持ちかけ、協力してもらうことになり
コンサルを依頼して徹底的な指導を受けました。
その時、美容業から
製造業までチャレンジする事に対し
エステの現場で働くスタッフは
誰一人として反対しませんでしたし
宮﨑に行ける日は喜んで着いて来てくれました。
本当に救われていたと思いますし
閉鎖的だった私たち美容業の世界を
もっと広くしていろんな世界を見せてあげたい、と
親に代わるような気持ちを
抱いたことも確かです。
低賃金、過重労働
休みも自由に取れない人が
本当に誰かを綺麗にできるのか —
オーガニックやサスティナブルと謳うなら
もっと目の前にいるスタッフや労働環境を
仕組みから変える努力をしなければ
誰も経営者に着いてなんてきませんよね。
「船員」は私一人ではダメなのです。
お客様が多くてもダメで
やっぱりその舵を共にきれる仲間がいないと
良いお店にも会社にもならないのです。
新たなる船出を
私は仲間たちを連れて
宮崎に幾度となく通い
仲間も私も納得できるオーガニック化粧品と
その業務用の商材を生み出すために
〈植物素材〉の探求を始めました。
宮﨑県国富町に
1000坪の空き地と空き家を買い
そこを化粧品工場に変える、という
壮大かつ非現実的な夢でしたが —-
私は2年でその場所を形にしました。
「できっこない」と笑われるたびに
私はやる気になったのです。
少し話は遡りますが
私のサロンは自宅サロンでありながら
開業した24歳の時から
月100万円以上の売上がありました。
理由は「化粧品の販売リピート率が高かった」から。
当時、オーガニック化粧品といえば
代官山に初めてできたコスメキッチンを始めとする
限られた店舗でしか買うことができず
しかも「素肌を診て選んでもらえる場所」は
私が育ったサロンしか当時はありませんでした。
薬事に厳しい化粧品業界。
植物となると余計に規制が掛かり
一体何が効くのか、合うのか、全く分からない…
私は「セラピスト」
つまり、間には”伝道師”が必要だと
ずっと感じていました。
その為、私のサロンは
「ファンデーションを卒業するサロン」として
具体的なコンセプトを掲げ
最初はひたすら
興味のある人に出逢えるように、と
様々なオーガニック系のイベントやスクールに参加し
たくさんの女性達と出会う事から始めました。
日々、手売りだった時期です。
そこで確かに需要があると感じた
“オーガニックセラピスト”という仕事。
これらのオーガニック化粧品と顧客の間には
必ず〈診れる人と伝えられる人〉が必要でした。
そして、当時高額だった
仕入れ値を改善すべく始めたのは
“自社化粧品の開発”でした。
飽くなき探究心でした。
「いつか自分で
化粧品を作れるようにならなければ
高騰していく化粧品も変えられないし
理想とするオーガニック化粧品はできない」
ましてや〈利益〉を出すなんて —
オーガニック化粧品が可視化され
どんな人でも使い方や物語が分かり易くなり
製品の質を保ったまま価格が安価になり
業務用の商材が多様化することが目的でした。
もちろん
サロンの利益を生み出すためにも
セラピストひとりでも
「作って、伝えて、売れる」必要がありました。
原価の高いオーガニック化粧品を
調整する必要がありました。
リピートしやすいように販売金額も
安くしたいと思っていました。
大手販売店への卸売は行わず
教育した小さな自宅サロン専売を行い
並行して、「自社の直販力」を上げることで
セラピスト達の仕事を作り続けたのです。
「高すぎるオーガニック化粧品」は、売れない、続かない。
使い続けて欲しかった人達に
良いものを手に取ってもらうには
透明性があり、分かりやすく、出来る限り安価で
継続しやすいものでなくてはいけない —
化粧品製造→販売→事業拡大
スクール開校→独立支援
→販売販路拡大→雇用創出…
全ての計画は〈ひとつ〉に繋がっていました。
結局、営業一つ出来ないセラピストには
サロンでは〈体力仕事〉しか残らない。
サロンの経営の問題と並行して
セラピスト達が施術以外のあらゆるスキル
例えば、経理や人事も全て
会社という組織に必要なものを学ばせる必要があり
お客様が入らない「空白の時間」に
私は多様性のあるインセンティブ制度と合わせて
様々なことを実践させていきました。
講師、開発営業、経理
化粧品発送、倉庫管理…
もちろん社保関係の手続きから決算の手伝いまで。
だからこそ
私の会社に
〈外注費等の固定費〉は殆どありません。
あるのは人件費、家賃、光熱費くらい…
スタッフ皆んなで発信するので「広告費」は〇円。
総務も人事も経理も専門のスタッフも雇わず
全て各担当のセラピスト達が”隙間時間”に。
顧問の弁護士も社労士も雇う必要はありません。
ある程度のことは全て私達で
空白の時間を活用して行うからです。
セラピスト達からすると
体力仕事以外でも
“お客様を綺麗にできる”化粧品販売や講師の
仕事で報酬も得られるし
残業も無くなり
定時に帰れる日も増えていきます。
そのスキルがまた報酬に繋がることも。
足りない報酬は「社内起業」として
セラピストたちに
マイブランドを持つことを推奨しました。
出来上がった仕組みの中で
自社ブランドを販売することが出来れば
固定報酬に加え
自分の売り上げも作ることが出来る —
全員がまるで「個人事業主」のようです。
だからこそ私が今こうして地方を飛び回り
化粧品を開発する時間が取れたり
プライベートもゆっくり過ごせるようになったわけで —
美容業において
新しい人材の活用と利益の生み出し方
今期、私の会社の営業利益は
「40%」を超えました。
化粧品の売上が半分を超えていることから
サロンというよりも
メーカーに近いのかもしれません。
人を酷使する箱ビジネスである美容業で
これだけの利益を作るためには
化粧品販売や製造というセカンドビジネス、含め
多くの外注費を社内化することが必要。
「オーガニック」と謳うのであれば
私は徹底的にヒトもコトもモノも
自然的で、且つ包括的であるべきだ、と —
「女性が女性らしく、ありのままで
そのままでも豊かに働き続けられるように」
まさに、美容業の〈維新〉です。
何よりも代表である私自身が
「自由であること、楽しいこと。」
オーガニック事業に取り組む人の多くが
ボランティア精神であることも問題だと感じ
やはり、持続的に行うのであれば
ビジネスがそこに存在しないと
提供すら一時的になる….
私たち自身が
豊かである必要がありました。
借金に追われず
人間関係に悩まず
大好きな植物と化粧品、オーガニックエステに
全力の愛を注げる「環境」は
“愛”なんていう漠然なものではなく
実に緻密で綿密な
「事業計画」から造られました。
そんな事業計画は
当時は誰にも解っては貰えませんでした。
だけど、私はもう動じません。
“解って欲しいなんて最初から思わない。
結果が出るまで人は絶対に理解できない。”と —
その強い気持ちは
当時激しく誹謗中傷をされた過去や
理解されずに苦しんだ経験が積み重なり
「悔しさは原動力」に
変わっていたからだと思います。
そんな私の行動力の根源には、いつも
“女性の働き方”と
”本質の高い化粧品”がありました。
どっちかと言う事はなく
両方叶える必要がある私の夢でした。
その壮大な夢が
私の背中を日々蹴飛ばしては
奮い立たせてくれていましたから。
坂田まこと
私の半生が自叙伝になりました。
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