生まれてはじめて。

 

私が語ることでは無いけれど…

 

娘があの日あの時
何度も観たいと
連れていった映画がある。

 

「映画館で2回も同じ映画なんて観ないでしょ」

 

 

…そんな私が人生で初めて
幼い娘の手に引かれて観た映画は
アナと雪の女王だった。

 

 

 

 

帰り道 —

吹き替え版の歌声を真似して
「生まれて初めて楽しかった!」という娘を見て

なんていい映画なんだろう、と

アナの歌声とキャラクターの純真さに
娘の言葉と合わせて
感動したことを覚えてる —

 

 

 

何度もアナのドレスを
買いたいと泣くほどに
たくさん真似して、歌ってたな。

 

 

 

 

そんな中、最近も再放送があって

11歳になった娘と久しぶりに観た時は
やっぱりいい歌だなぁ、と思って泣けたんだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「生まれてはじめて。」

 

 

 

 

 

悲報を聞いて、胸が締め付けられた。

 

 

私は知り合いでも何でもないけれど
一人の人間が
何も言えずに死んでしまうこと。

 

その後に残された人たちが
どれだけ悲しく、悔やむかということ。

 

芸能人の方々の
様々なコメントを見て
胸が深く締め付けられて、苦しかった。

 

 

 

もし娘が…と思うと、
同じ親である私たちは
涙せずにはいられなかったと思う。

 

 

 

– そういえば、今年の夏。

ハント症候群という
顔面麻痺を患った時、
馬鹿なことを考えたと思うけれど

 

 

 

「死んでしまえば
皆んな心配してくれるだろうか」とか

「居なくなれば
叩いたことを後悔するだろうか」とか

 

生きている時間が
あまりにも長すぎて

一人の時間に余計なことを
たくさん考えてしまって

どんどん、抜け出せない迷路の中に陥っていく。

 

 

たった一人。

残された部屋のソファで
天井を見上げながら
そう考えた時があったから —

 

 

あの時は
誰にも苦しみを理解してもらえなくて

自分の目指してきたものとか
大切にしてきたものとか
全部丸ごと、否定されてしまった気がして

思い込みや勘違いだとしても
それを誰かに吐き出さない限り
一人では到底
前向きには考えることができなかった。

 

 

人の嘘や裏切りや
見えない刃物の数々が

柔らかい皮膚を突き抜けて
何処かへ飛んでいくような —

 

 

 

「これが死にたくなる人の気持ちなんだなぁ」と

そんな気持ちになった事がない私にとって
初めて感じた気持ちに
学びもあったわけで。

 

 

 

そこから何とか多くの人に頼って
自分の気持ちを整理してみたら

余計なものへの執着や固執が
〈私らしさ〉を奪っている気がして
目が覚めた頃。

 

 

「死んでも、何にも変わらないのか。

私自身が
自分を好きにならなくちゃ —」

 

 

 

 

 

そう思えたのは
親友や親の言葉、周りの仲間たちの
「まことさんなら大丈夫」という
自信を支えてくれる優しさだけだった。

 

 

一見、順風満帆な人や
成功しているように見える人の方が

一歩間違えると
頼れる人や信じられる人が少なかったり

弱音を吐くことへの罪悪感や
人に頼ることへの羞恥心が
孤独を作ってしまう時がある。

 

 

〈人の強さ〉は
偉大さには決して比例しない。

 

 

 

つい半年前のことだと思うと
自分も、周りも、娘も
決して人ごとではない。

 

 

「死去」と言う言葉は二文字でも
その人の生きた時間を
二文字では表せられないから。

 

 

 

 

– 余計に悲しいね。

頑張って生きて欲しかったけど
それすらも
意味のない言葉なのかもしれない。

 

重ねてしまうには
私も娘も存在の大きさが違いすぎるけど
一歩間違えば…とそう思うだけで
この事実はあまりにも悲しかった。

 

 

 

 

 

 

生きてさえいれば何度でもやり直せる。

 

 

でも、生きることが一秒でも
辛い時だってある。

 

〈頑張って生きて〉がしんどい時もある。

 

 

救えない命はもどかしいし
他人の私は何も事実を変えることも
知ることも難しいけれど

 

 

もし、この世が狭すぎて

羽根が自由に
伸ばせなかったとしたならば

今度こそは
自由に、あなたらしく、何処までも
歌いながら高く飛べたらいいなと願う。

 

坂田まこと