叶わない恋だと
可哀想なふりをして
例えば、大切な人がいたとして。
昔は自分の思ったように
行かないことが
悔しくて悲しくて
届かない声がもどかしくて
よく泣いていたんです。
「叶わない恋だ」なんて
悲劇のヒロインみたいに
可哀想なふりをして。
でも、考えてみたら
自分の方が盲目になっていて
相手の優しさや想いを無視してきたり。
人によって愛情表現が異なるとしたら
私はきっと、極端だったと思うし
〈大人の恋愛〉なんて
これっぽっちも理解できなかったんです。
「その恋は何を叶えたいの?」
友人に言われてハッとしたんです。
人並みの経験を終えて
娘もいる私にとって
普通の女性が歩む幸せが
必ずしも幸せとは
限らない事を知っていたのに
独占したい想いが愚かな事を
想像させたりしたんです。
引いては押して、押しては引いて。
波のように落ち着かない気持ちを
ただ、安心させたくて
お互いの個性すら認めようとしなかった事 —
「ただ、好きでいるだけで。」
一人で生きていくと覚悟をしてから
私は随分と賢くなったと思うのです。
娘のことも。
会社のことも。
身体のことも。
私の幸せのことも。
余計なものを捨て去って
身軽になって丹田を地に下ろしてみたら
全ての出来事が
「他愛もないこと」と気がつきました。
– そっか、愛されてたんだ。
これでも、ちゃんと —
ずっと不安で泣いてばかりいたんです。
でもね、自分の心が落ち着かないと
地に足がついていないと
満たされない心を
相手に埋めてもらいたくて
欲張りになってしまう。
本当は
その穴は自分でしか埋められない。
分かっていたのに、ずっと相手のせいにして。
例え、叶わぬ恋でも
自分の心を潤すものであれば
それはとっても素晴らしいものなのに
人は何故か所有するまで
安心できない生き物で。
〈ずっと応援していたい〉という親愛は
何年経っても月日が経つほど
より深くなって
虚しさなんかよりも誇らしさが募るとして。
こんなにも
人を好きなったことが無かった私にとって
この恋は本当に素晴らしい経験だった、と
自ら終わりを告げたら
やっと気がついたわけです。
– ただ、ただ
好きなように生きていてほしい。
31歳になる、この秋。
私は一つの愛の形を知りました。
幸せになってほしい。
好きなことに夢中になれる環境を
大切にしてほしい。
誰にも捉われずに、生きてほしい。
辛い時に逃げてきてほしい
甘えてほしい。
また歩き出したくなったら
好きなように飛んでいけばいい。
何か与えてほしいとも
守ってほしいとも今は思わなくて
ただ、無言で寄り添う時間を大切にしたい。
自分の幸せは
自分で手に入れるから、大丈夫。
その人が
この世に生きていてくれるだけで
私は勇気をもらえるとして。
それって何て素敵な恋なんだろう、と
思うわけです。
その人もかつては私に
そう願ったように
私もその人に対して
いつしか
そう願うようになりました。
形の決まった関係性なんて無くたって
別に大したことでは
なんでもないってこと。
大人になるまで、気づけませんでした。
本当に大切に想うからこそ
本人の幸せを願えば、自然とそうなっていく。
それが親愛だとしたら
かつての私は
ちゃんと愛されていたわけです。
それが気が付けたことだけで、私は幸せ者です。
恵まれていたのです。
ずっと、ずっと、彼の胸の中で。
そんな恋を知ったこと。
そんな風に思えるようになったこと。
そんな自分を好きになって
それさえもこんなに嬉しいことだなんて
思いもしませんでした —
応援してもらって、応援して。
それだけでこんなにも毎日頑張れる。
目の前の景色が
何倍も美しくなるとして。
もう十分に私は与えられてきたとしたら
それは、限りなく無償の愛でした。
その愛情に気がつけなかった
過去の私からの卒業です。
たくさん傷ついた分だけ
私はもっと、心から美しくなれるとして。
この恋はずっといい思い出になり
この恋はわたしの幸せの源になるとしたら
こんなにも素敵な3年間は
なかったと思うようになりました。
頑張りたい。
もっと、頑張りたい。
追いつきたい、きっと私にも —
さて、今日もまた
深い傷を背負って
新しい出逢いを探しにいくよ。
私は最高の恋を知って
人の愛の深さを知って
こんなにも幸せになれたから
もう、何も怖くないよね。
私を大人の女性にしてくれたこと。
本当にありがとう。
これからも私は
私らしい愛の形を探しに行くよ。
坂田まこと
私の半生が自叙伝になりました。
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